夜間にモスクワ上空を飛行すると、この都市がクレムリン宮殿を真ん中にした小さな環(わ)と、その周りを同心円状に幾重にも取り巻いている環状道路によって形作られているのがわかる。20世紀も終わろうとする頃には、それらの環から発せられていたのは、かすんだ、ぱっとしない黄色い光だった。
モスクワはヨーロッパの端にあるうらぶれた衛星都市で、ソヴィエト帝国の残り火が目に映るだけだったのだ。それが、21世紀に入ると何かが生じたのである。ずばりマネーである。これだけ多額のマネーがこれほど短い期間にこれほど狭い場所に一気に流れ込んだ例はなかった。
急速な進歩に見舞われていて、移ろいの速さから現実感というものがまるで失われてしまっているこの都市、青二才が一瞬のうちに億万長者に成り上がるこの都市にいなければ納得するなど無理だ。
猛スピードの発展のなかでロシアは、共産主義からペレストロイカ、ショック療法、貧困、オリガルヒ、マフィア国家、そして超のつく大富豪に至るまでのじつに多くの世界をえらく足早に見てきたから、ロシアのニューヒーローたちは、人生は一度きりのきらびやかな仮面舞踏会であり、そこではいかなる役割や地位、もしくは信念さえも移ろうものだという感覚を持ち続けてきた。
―ピーター・ポマランツェフ著『プーチンのユートピア 21世紀ロシアとプロパガンダ』
大坂なおみのユートピア
今年、世界的に最も有名となった日本人は、他でもない女子テニス選手の大坂なおみだろう。年初にWTAランク<68位>(1月1日付)だった選手が、今春インディアンウェルズ(米西海岸)で行われたWTA1000『BNPパリバ・オープン』で優勝(WTAランク22位にランクアップ)し、そして今夏ニューヨーク(米東海岸)で行われたITF2000『全米オープン』でも優勝(WTAランク7位にランクアップ)し、一躍「時の人」となったのだ。
そして、今秋北京で行われたWTA1000『中国オープン』では準優勝し、自己最高ランキングとなる同ランク4位につけ、今年活躍した上位選手8名による大会WTA1500『WTAファイナルズ』の出場権を獲得するまでに至ったのだ。女子テニス界にニューヒーローが誕生し、数年前まで携帯電話も所有していなかった10代の少女が、この短期間で劇的に進歩し、『マスターズ』及び『グランドスラム』の2大会を制覇し、億万長者に成り上がったのだ。
今月21歳となった大坂なおみちゃんは、自身を「完璧主義者」だと公言しており、ウィリアムズ妹を模範とした彼女のテニスは“パワーテニス”ゆえ、彼女の理想とするプレースタイルで完璧さ(正確なストローク)を持続するのは困難だ。昨年まではアンフォーストエラーを連発し自滅していたが、今年からすべてのボールをバカ打ち(強打)するのをやめ、プレー精度の向上(上質のテニス)に努め、メンタル面の強化も図られた結果、無冠だった彼女は今年初めてタイトルを獲得するまでに至ったのだ。
男子テニスに目を向けると、ビッグサーバーの選手は少なからずいるが、パワーテニス一辺倒の選手は存在しない。なぜなら、男子テニスの世界はストローク全盛の時代であり、ナダルとジョコビッチを頂点とする鉄壁のディフェンス力を誇るトップ選手と対戦する場合、パワーテニス特有のアンフォーストエラーによるミスは致命傷となり、負けを意味するからだ。付け加えるなら、ナダルの場合、鉄壁のディフェンス力のみならず、安定したメンタルの強さと圧倒的な攻撃力も併せ持つクレバーな選手ゆえ、とりわけクレーコートで彼に勝つのはほぼ不可能な時代なのだろう。
身長2m前後の高身長のビッグサーバーと言われる選手・・・例えば、古くはイボ・カロビッチ(39歳)から、近年ではイスナー(33歳)やアンダーソン(32歳)、そして攻撃的なビッグストロークを打ち込む選手・・・例えば、チリッチ(30歳)、デルポトロ(30歳)、ティエム(25歳)等々、トップ10選手に限らずとも、なぜ多くの選手がナダルやジョコビッチに勝てないのか、その最たる理由は、ベーススピードのレヴェルが驚異的に高いため、それを崩すことができないからだ。守備が上手いストローカーのズベレフ弟や錦織圭然り、ね。
今年、私的に記憶に残っている試合は、ITF2000『ウィンブルドン選手権(芝コート)』準々決勝(ナダルVSデルポトロ)の試合(4時間48分にも及ぶ激闘の末、ナダルが3-2で勝利)をはじめ、ATP1000『ロジャーズ・カップ(ハードコート)』準々決勝において、超攻撃的な選手のひとり<チリッチ>がナダル相手に博打的に仕掛けたリターンでの連続したバカ打ち(強打)が、ほぼすべて決まってウィナーとなり、第1セットを6-2で先取したのを未だ鮮明に憶えている。そんな“スーパー”チリッチ化した彼のパワーテニスも第2セット目以降では継続することができず、アンフォーストエラーが増え、ナダルに1-2のスコアで敗れたのだ。もう何十回、いや何百回も、こんな試合を過去目にしてきたが、パワーテニスが通用するのは女子テニスの世界だけであり、男子テニスではナダルやジョコビッチがまだまだ健在な時代には主流にはならないはずだ(笑)。
そう、「完璧主義」を公言する<大坂なおみのユートピア>的な発想は、強打してもアンフォーストエラーを犯さず、エースやウィナーを連発し、短時間で試合を終わらせる「完璧なパワーテニス(メリットは、体力の消耗を最小限で抑えられること)」だとも言えるが、彼女の内気な性格上(メンタルが弱く、試合中によく号泣するため)、私的にはそのプレースタイルは性に合っていないようにも思われ、例えば、ウォズニアッキのような技巧派のそれに変える必要性はないはずだ。とはいえ、下位の選手相手ならともかく、『WTAファイナルズ』ではトップ10選手に今回3連敗し、彼女の弱点(「メンタルの弱さ」と「アンフォーストエラーの多さ」)が露呈したが、進化の途中だと楽観視するのも悪くない。
そう、彼女はテニスをうまくコントロールできている試合の中では笑顔も時折見られる一方、それが逆にうまくいかないケースでは笑顔が消え、自分の殻に閉じこもり、負のスパイラルに陥り、自滅することも少なくない。負けず嫌いの性格と、若者特有の子供っぽさの表れなのかもしれないが、敗戦後のインタヴューで、必ずと言っていいほどに彼女は「言い訳」を口にするのだ。
例えば、『東レPPO』(9月17日~23日)決勝で負けた試合後に“体調が良くなかった”と。続く『武漢オープン』(9月23日~29日)は欠場し、万全の態勢で臨んだ『中国オープン』(9月29日~10月7日)では、準決勝まで勝ち進んだが、セバストワに敗れた試合後“初戦からずっと腰痛だった”と。そして『WTAファイナルズ』では2連敗し、3戦目のキキ・バーテンス戦で第1セットを先取され、第2セットに入る直前に途中棄権し、3連敗を喫した試合後“第1戦目から左足に痛みが・・・”と。彼女は以前から呆れるほどに「言い訳」を連呼する選手だが、先日「負けから学ぶこともあるわ」との前向きな発言は嬉しい驚きだった。
WTA1500『WTAファイナルズ』(10月21日~28日)
周知のとおり、同ファイナルズは、ウクライナ24歳のスビトリナが5戦全勝により、初優勝を飾ったが、正直、この結果を全く予想できなかったが、東欧諸国の女子選手たちの目覚ましい活躍の中において、一際輝いている華がある選手がスビトリナだろう。
第1試合(VSスティーブンス)
2時間24分にも及んだ試合で、大坂なおみは「エース7本、ウィナー27本」を決めており、パワーテニスが功を奏し、その数字だけ見れば、完璧なテニスだったのかと錯覚するほどだが、アンフォーストエラーは46本を数えており、それはスティーブンスの約1.5倍だ。攻撃的に戦い抜いた結果、凡ミスの山を積み重ねたとも言えるが、メンタルの弱さが露呈した試合だったとも言えよう。
第2試合(VSケルバー)
2時間29分にも及んだ試合で、第1試合同様、大坂なおみは「エース6本、ウィナー42本」を決め、彼女らしい「パワーテニス」を披露したが、アンフォーストエラーは前回のそれを上回る50本を数える。ナダルやジョコビッチのような上質なテニスとは対照的な酷い試合だったとも言えよう。
第3試合(VSバーテンス)
第3試合は、大坂なおみと似たタイプの強打を誇る選手との対戦だったが、ウィナーはバーテンスの8本に対して僅か2本、アンフォーストエラーはバーテンスの8本に対して(1.5倍以上の)13本を数え、ブレイク数はゼロ。第1セットを先取された後に、途中棄権し、3連敗となったが、今回トップ10選手ばかりとの対戦は、いい経験になったと思われ、来年以降のさらなる飛躍を期待したい。
最後に
東京国際映画祭にハロウィン、そして今夜からATP1000『パリ・マスターズ』(10月29日~11月4日)本戦がパリで開催されるが、注目は全米オープン準決勝で、膝を負傷し途中棄権した、テニス界のスーパースター<ラファエル・ナダル>の復帰だろう。膝の問題がなければ、決勝まで勝ち進み、ジョコビッチが対戦相手になると予想できるが、ナダルは2016年の同大会を欠場、昨年は途中棄権(準々決勝まで勝ち進みながらも、膝の負傷により、準々決勝前に棄権)しているように、怪我だけが心配だが、ナダルの活躍に期待したい。
Anyway the wind blows